日本野球界の象徴的存在、長嶋茂雄さん。
実は彼の才能は、日本だけでなく海の向こう、アメリカ・メジャーリーグのスカウトたちの目にも止まっていました
なかでもロサンゼルス・ドジャースは、複数回にわたり本格的なオファーを出していたと言われています。
しかし、実現には至らず…。
そこには、時代背景や球団の思惑など、いくつもの「壁」があったのです。
この記事では、長嶋さんに届いたメジャーからのアプローチの詳細、移籍が実現しなかった理由、そして「もし行っていたらどうなっていたのか?」というifストーリーも交えて掘り下げていきます。
長嶋茂雄に舞い込んだメジャーからのラブコール
1961年:ベロビーチキャンプでの出会い
巨人がアメリカ遠征を行った際、フロリダ州にあるドジャースのキャンプ地「ベロビーチ」で、長嶋さんは監督のウォルター・オルストンから声をかけられました。
「君、メジャーでプレーしてみないか?」
その時点では正式なオファーではありませんでしたが、メジャー側が本気で彼に注目していたことがわかります。
1963年:ドジャースが正式に獲得を打診
この年のオフ、ドジャース会長ウォルター・オマリーが来日。巨人球団に対し、「長嶋選手を譲ってほしい」と公式に申し出ました。
しかし、巨人の答えは即座にNO。
彼はすでに「巨人の顔」であり、球団だけでなく日本球界全体にとっても代えのきかない存在だったのです。
1966年:日米野球で再オファー
3年後、日米野球でドジャースが再来日。オマリー会長は再び巨人にアプローチし、「2年間だけ貸してくれ。その後は返す」と柔軟な提案をします。
が、やはり巨人は断固拒否。
長嶋のメジャー挑戦は、またも幻に終わったのでした。
メジャー移籍が叶わなかった背景とは?
巨人の強烈な引き止めと、正力松太郎の一言
最大の理由は、巨人球団の執拗なまでの引き止め。なかでも当時のオーナー・正力松太郎氏の発言は有名です。
「お前がいなくなったら、日本の野球は10年遅れるぞ」
「バカヤロウ、日本の野球のために、お前はここにいなきゃいけないんだ!」
この説得が、長嶋さんの心を動かしたと言われています。
メジャー挑戦に立ちはだかる前例のなさ
1960年代当時、日本のプロ野球からメジャーへ渡った選手はまだ誰もいませんでした。
- 球団間の契約や制度が整っていない
- 海外移籍によるファン離れの懸念
- 国民的スターが海外流出することへの社会的反発
こうした状況が、長嶋さんの挑戦を現実から遠ざけたのです。
もし長嶋がメジャーに行っていたら…?
「日本人初のメジャーリーガー」が長嶋さんだったとしたら——
- 日本のプロ野球の人気はどうなっていた?
- 巨人の黄金時代は築かれていたのか?
- 王貞治との“ONコンビ”は実現していた?
本人ものちにこう語っています。
「メジャーに行っていたら、向こうでは2番や1番のタイプ。中距離ヒッターとして、打率.270〜.280くらいだったかな」
結果として彼はメジャーには行かず、日本に残りました。でも、その選択があったからこそ、彼は“ミスタープロ野球”として国民的存在になれたのかもしれません。
なぜ、長嶋茂雄はここまで語り継がれるのか?
野球をエンタメに変えたスター性
長嶋さんの真骨頂は、プレーで観客を熱狂させる「魅せる野球」でした。
- 三振しても拍手が起きる豪快なスイング
- 全力疾走からのヘッドスライディング
- どんな場面でも「絵になる」立ち居振る舞い
まるで舞台俳優のように、1プレー1プレーが観る者の心に残るものでした。
ここぞで打つ勝負強さ
- 開幕戦で4打席連続三振 → 翌日ホームラン
- サヨナラ打の数々
- 王貞治との最強打線「ONコンビ」での大活躍
華やかなだけでなく、結果を残す勝負師でもありました。
野球人気を爆発させた「時代の顔」
テレビ中継の視聴率を動かす存在。子どもたちが夢中になった「巨人・大鵬・卵焼き」の一角。野球を“国民的スポーツ”に押し上げたのは、間違いなく彼の力でした。
まとめ
長嶋茂雄さんはメジャーリーグからのオファーを受けながらも、それを断り日本球界に残ることを選びました。
もし渡米していたら、確かに新たな歴史を作っていたかもしれません。
ですが、彼が日本にとどまったことで、プロ野球の魅力や文化が国中に浸透したのも事実です。
今なお「ミスター」として敬愛され続ける理由は、成績以上に、人を惹きつける「存在感」にあったのではないでしょうか。